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田澤義鋪記念会

◆田澤義鋪記念会とは

 田澤義鋪は大正・昭和の激動の時代に、日本の社会教育の振興、青年団の発展に尽力するとともに、日本の国の政治刷新、とりわけ選挙粛正運動に生涯のすべてを捧げました。田澤義鋪記念会は、その思想を引き継ぐべく1952(昭和27)年に設立された財団です。発足以来半世紀以上にわたり田澤義鋪の残した民主的平和的な社会教育上の精神と業績を伝えるとともにその実現に向けて、毎年秋に故人を偲ぶ記念会を開催や書籍の刊行と普及、映画の製作、青年団を育成するために田澤賞の制定などの諸事業を行ってきました。

 平成24年3月に財団法人日本青年館と合併しましたが、こんにちも、故人が理想として追求した“道義国家の建設”に寄与するため、活動を継続しています。田澤義鋪の思想と言動は今日も生きています。日本青年館は記念会の歴史を継承し、田澤精神の普及に力を尽くしてまいります。

 

◆田澤義鋪とは(成田久四郎著「社会教育者事典」より)

 田澤義鋪(たざわ よしはる)は明治18年7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村高津原(現鹿島市)に父義陳(よしのぶ)、母みすの長男として生まれた。熊本第五高等学校を経て同42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、同年44年横尾洋子と結婚、昭和8年洋子夫人死去、翌年福本節子と再婚した。

 田澤は大学卒業前に休暇を利用して、日露戦争後にわが国の支配下に入った満鮮地方の視察の途に上った。この旅行で彼が大連で見た光景は、終生消すことの出来ない義憤となった。それは戦勝を笠に着た日本人の傲慢さであり、中国の苦力などに対する非人道的扱いであった。このとき、彼自身の胸に久しく培われて来た道義感が、猛然として戦闘態勢をとりはじめたのである。「道義なくして何の国家だ。日本は東洋のならず者になってはならない。それには大国民的性格の教養こそ、とりわけ政治と教育の基調でなければならない」とした。このことが彼自身の将来を指向する原点ともなった。                

 彼は大学卒業と同時に明治43年4月静岡県属を経て同年8月、25歳の若さで同県安倍郡長に任ぜられた。彼はこの郡長時代に農村青年教育に意を注ぎ、農村を基盤とする青年団を育成し、さらにその活動範囲をひろげ修養運動とも連携し、農村青年の人間形成を目的とする天幕講習会などをひらき、全国的青年団運動の下地をつくった。こうした動きは、明治神宮造営のための全国青年団による勤労奉仕を契機として、後年大日本連合青年団の結成、全国の青年一人一円募金による日本青年館建設などに発展していくこととなった。明治末年より大正時代を貫き、さらに昭和期にかけて日本の青年教育に重要な役割を果たした青年団運動の中心に、まぎれもなく田澤義鋪を見出すのである。

 また、田澤は大正9年財団法人協調会の常務理事に就任、彼は青年団の経験を生かして労務者講習会をひらき労資協調をはかった。さらに大正11年には第四回国際労働会議に労働代表として出席している。大正13年8月、田澤は協調会理事を辞任し、この前後より政治に具体的に参与し、また政治教育に積極的な働きかけをしている。同年1月新政社を創立、雑誌「新政」を創刊。同年5月彼がかって郡長として青年団を育成した静岡県第三区より衆議院議員に立候補し、理想選挙を戦って惜敗、同年10月に東京市助役に就任している。しかし何といっても彼の活動の本領は青年団運動にあった。大正13年に結成された大日本連合青年団の理事に就任、同14年10月日本青年館開館式に「道の国日本の完成」と題する記念講演を行っている。昭和4年には壮年団期生同盟会を創立し、昭和6年には都下武蔵小金井の浴恩館に青年団指導者養成所を開設し、全国の中堅青年たちを集めて長期講習会の指導に自らあたり、昭和8年には田澤の親友下村湖人を講習所長に迎えている。昭和元年には大日本連合青年団並びに青年館の常任理事に就任、同9年には理事長となり同11年に理事長を辞任、青年団運動の第一戦から去ったのである。

 なお、この間田澤は昭和5年、8年に三回にわたり、両陛下に青年団に関して御進講をしている。そして今日、青壮年指導の理論と実践の上で彼を乗り越えたものはいないとまでにいわれている。彼はまさしく日本の青年団の育成者であり、非凡な指導者であった。

 田澤は昭和8年貴族院議員に勅撰されて、憂国の質問演説を行ったが、それが単なる議場の拍手で終わったことは是非もない日本の運命であったのかもしれない

 2.26事件後の広田弘毅内閣に内務大臣として入閣を求められたがそれを断った。昭和14年には淀橋青果青年学校の校長(無給)に志願して就任している。彼は日本の動向が次第に非常時から戦争へと傾斜していくあの時代に「人生最高の悦びは自由創造にあり」とする新自由主義を信条として、よくぞ生き抜いたものである。

 だが青年団、壮年団の育成、政治教育、労務者教育など数々の偉業を体当たりでなしとげた教育思想家、田澤の歩んだ栄光の道も時流には抗し難く、彼の晩年に挫折の影を見るのである。そして太平洋戦争も深まる昭和19年3月、四国善通寺の講演の旅にあって、敢えて敗戦を予言し、その場に卒倒した。以来わが家の敷居を踏むこともなく限りなき失意と、祖国の前途を案じながら同年11月24日、旅路の善通寺で59歳の生涯を閉じた。

 

◆絵本 ~この人を見よ~ 田澤義鋪

 この絵本は、公益財団法人明るい選挙推進協会発刊の『私たちの広場』2009年5月306~2010年3月311号に掲載されたものです。田澤先生の政治教育運動は、明るい選挙推進運動に受け継がれています。田澤先生生誕125周年記念事業の一環として、協会のご好意により転載させていただきました。以下のリンクからご覧下さい。

 絵本 ~この人を見よ~ 田澤義鋪

 

◆関係団体

 田澤義鋪を顕彰する団体は、田澤義鋪の出身地の佐賀県鹿島市にも田澤義鋪記念館があります。生家跡地に1984(昭和59)年4月に発足し、地域の教育環境づくりと田澤精神の発揚を求めて活動しています。また、青年団活動出発の地となった静岡県にも顕彰会があり青年団のOBを中心に積極的な活動をしています。

一般財団法人田澤義鋪記念館

〒849-1311 佐賀県鹿島市大字高津原434番地

電話 0954(63)1622

 

静岡県田澤義鋪顕彰会

〒410-0022 静岡県沼津市大岡3400-5 鈴木庄七方